教授レポート

Instructor Reports

研究し続けることによって
到達した独創の境地

およそ30年前、韓国は軍事政権が終息したばかりで、安定と不安定が交錯していました。 そんな時代に私は韓国から来日し、母国韓国を客観的に見つめ直すことができました。 その客観的な視点こそが私の国際関係研究の原点であると感じています。 本学で学び、一貫して「米韓関係・軍事・安全保障」を研究してきましたが、外交文書など資料収集が大好きで、 韓国の国会図書館や外交史料館に朝から晩まで飽かずに通い詰めたこともありました。 自分が知らない新しい事実に触れると、霞がかかった物事がはっきり見えてきます。 その感覚が学ぶ楽しさだと感じます。博士論文の終章で結論を書き終えた時、背筋を貫くような充実感を感じ、 「これこそが自分のオリジナリティだ」という、悟りに似た喜びに胸が震えたことを覚えています。

その後、研究対象は日韓関係にも広がり、10数年前から多くの学生を巻き込んで日韓学生交流を企画しています。 メディアの論調から相手に対する先入観を持っていた学生たちも、一度会えばすぐに通じることができます。 直接会って肌感覚で付き合うことの意味は大きいと感じています。 2007年に刊行された画期的な日韓歴史共通教材『日韓交流の歴史』(日韓で同時出版)など、多くの良書に歴史を学ぶことで、両国間における新たな発見を見いだすことができると思います。

写真の解説:
日韓で同時発行された共通教材『日韓交流の歴史』

見聞

国際関係を学ぶ上で重要なのは、二国間、多国間の歴史や現状を知ること。そして政治や経済、安全保障だけではなく、人と人、人間同士の素直な、そして直感的な結びつきが何より大切です。

鄭 勛燮 教授

興味を突き詰めると、
自分の世界は明るく広がっていく

フロベールとの出会いは高校時代に読んだ『ボヴァリー夫人』。 “ 何も起こらない” 日常の閉塞感が切々と伝わってくる物語に驚き、大学で初めて原書に接した『純な心』のラストでは涙が止まりませんでした。 博士後期課程ではフロベールの地元である北フランスのルーアンに2年間留学。 苔むした石畳や大聖堂の鐘の音、雨雲から時折射す日の光に映えるステンドグラスなど、フロベールが見た風景を体感した感動と同時に、 自室で研究に没頭しながら感じた孤独もまた、小説の世界に身を置く悦びとなりました。 2017年に1年間、再びルーアンに滞在する際に借りたアパルトマンの1階は、偶然にも地元で知られた古書店。 『ボヴァリー夫人』の初版本に触れることもでき、店主である大家さんと共に研究会に参加するなど、多くの出会いが生まれました。 フロベールを求め続けた一点から多くの体験や知識が派生し続けています。 19世紀フランスに生きた作家が、21世紀の日本で一人の研究者の人生を作っているのです。 自分の興味を突き詰めることで新たな世界が拓かれることを、学生にも知ってほしいと思います。

写真の解説:
1年間暮らした古書店3階の自室

見聞

人生を方向づけたフロベール『ボヴァリー夫人』の舞台となった地、ルーアンへ。 [見聞] 作者が描いた物語世界を追体験することができた夢のような3年間。

橋本 由紀子 教授

多くの人との交流を通して
観光地の新たな価値を創出

1990年代の北海道ニセコの高校の観光コースで教鞭を取った10年間が地域の観光に携わる転機になりました。ニセコは今でこそ年間を通して外国人が押し寄せるインバウンド先進地ですが、当時はバブルが弾けて、寂れていくスキー場やホテルの再生、夏のグリーンシーズン対策などを生徒たちや地元の観光関係者と考えていました。当時のつながりは今でも生きていて、研修などで行き来しています。

川崎市の産業観光の推進に関わった時には、工場夜景がヒットしました。人と違う目線を持つことで、俯瞰する夜景とは違う、映画『ブレードランナー』をイメージするような、新たな観光資源としての夜景を提示できたのです。

ゼミの重要なテーマの一つは、伊豆の観光の玄関口である三島市のインバウンドを通過型から滞在型にシフトするための素材探しです。世界を旅する人たちは自分が知らない世界を求めています。フィールドワークで多くの人と触れ合うことで、地域や旅行者の背景にある世界を感じながら、学生とともに価値ある観光地の活性化を考えています。

写真の解説:
札幌の高校生の三島研修受入れ

見聞

バブル崩壊後のニセコの再生を高校生や地元の関係者と触れ合いながら考えた10年が観光学を深く考える原点

宍戸 学 教授

国際目線で
クールジャパンの魅力を再発見

子供の頃スペインで観た『ドラえもん』などの日本のアニメに夢中になったのがきっかけで日本に興味が湧き、バルセロナ自治大学では、第2外国語に日本語を選択。日本の文化や歴史を学び、4年時には独協大学の日本語プログラムで1年間留学しました。卒業後に進学した早稲田大学コミュニケーション研究科のジャパニーズスタディーズのゼミでは、世界各国から集まった学生からのフィードバックで、自身の研究に新たな視野を拓くことができました。

『たけくらべ』『言の葉の庭』など日本文学のスペイン語訳も手掛けていますが、中でも樋口一葉の言葉の使い方はまさに天才的です。明治期の旧仮名遣いの原文は日本人にとっても難読で、スペイン語翻訳はまさに言葉との格闘の日々でした。同時期に活躍した清水紫琴は『こわれ指輪』などの作品で夫の不貞や離婚といった、当時としては斬新なテーマを扱っている点に惹かれます。国際社会から見たクールジャパンの魅力に触れることで、クラスでは学生に新たなアングルから日本文化の価値を感じさせることを目的としています。

写真の解説:
新海誠著・小説版『秒速5センチメートル』『言の葉の庭』『君の名は。』(プラネタ出版)、宮澤賢治著『銀河鉄道の夜』(サトリブックス)マルティネス訳によるスペイン語版

見聞

樋口一葉など明治期の女流作家に注目!天才的な言葉の使い方と斬新なテーマに魅了される

パウラ・マルティネス 助教

世界は広大無辺
相手の言語や文化を知ることで
世界は広がっていく

私の海外志向がどこで芽生えたか記憶を遡ると、中学時代、豪州へのホームステイでお世話になった家族が、父方のルーツがギリシャ、母方がイタリアで、ルーツの違いにより異なる発音をしているのを認識したことから始まります。

2017年、英語音声学の研究論文作成のため、パリとジュネーブに滞在して「フランス語話者」を相手にデータ収集を行いました。協力者をインターネットで募ったところ瞬く間にたくさんの「協力したい!」のメッセージが届き、この初めての経験に歓喜しました。調査に参加してくれた幅広い年齢層の方から、本来はこちらが「ありがとう」を伝える立場であるのに、皆さん「Merciありがとう !」と言ってくれました。それは相手や相手の文化をリスペクトし、相手の言語を話すよう努力した結果、得られた「ありがとう」だったと思います。「相手をよく知りたい」という思いを形にすることで、良い結果につながることを実感した瞬間でした。

写真の解説:
お世話になった先生、友人が在籍しているパリ大学

WATCH-「見」

人にはルーツがあり、そのルーツが醸し出す独特で多様な音声言語。

WATCH-「聞」

思いを伝えるためには、その土地の言語を話すだけではなく、相手のルーツや文化を知る。

大井川 朋彦 助教

世界には、価値観が180度変わる
歴史的瞬間がある。

東西冷戦のシンボルだったベルリンの壁が崩壊したのは1989年。ドイツのマインツ大学に留学していた私が、1週間のベルリン研修に参加したのは10月。東ドイツに入るチェックポイント・チャーリーの検問が異常に厳しかったのを覚えている。それから1か月、相次ぐ東ドイツでの大規模デモに耐えきれず東独のホーネッカー第一書記が辞任し、11月9日、ついに壁は開放された。

その年の大晦日に再びベルリンを訪れたが、夜空に盛大な花火が打ち上がり、歓喜に沸く群衆が壁によじ登り、ハンマーで打ち砕くあの歴史的光景が、まさに私たちの眼前で繰り広げられていた。

法律を学んでいると国家が永遠に存在し、法が不変のものと思いがちである。それがあっけなく崩壊する瞬間を私は目撃した。戦前・戦時中を知る世代の人たちは、国の正義や伝統的価値観までも一夜にしてひっくり返った事実を体験している。法律も平和もあくまで暫定的な存在であり、永久不滅なものなど何一つないのだ。

法も国家も、その基本は“人”。みなさんも一人ひとりが持っている価値観や経験を凌駕するような体験をしてほしい。国際総合政策学科ならば、あなたにふさわしい分野がきっと見つかるはずだ。

写真の解説:
29年前に崩壊したベルリンの壁の一部が、現在も残っている。
世界を学ぶことで、様々な「歴史的瞬間」に出会うだろう。

このTopicsに関する講義

  • 国際法
  • 国際関係私法
  • 国際政治史
  • 紛争研究 etc.

小野 健太郎 教授

1992年、日本大学大学院法学研究科博士後期課程満期退学。グローバル化に伴って日本国内でも外国人がらみのトラブルが増えているが、日本側のルールに加え、彼ら外国人固有のバックグラウンドを尊重して問題の解決に当たる国際私法・民法の専門家として知られている。

教員紹介

既成概念や固定概念にとらわれず、
多角的な視野を身につけよう!

「メリクリ!」「アケオメ!」… いつの世にも、若者言葉に眉をひそめる大人たちがいる。カタカナ言葉が多すぎる、もっと日本語を大切に、という識者もいる。しかしそれは日本だけの嘆かわしい風潮なのだろうか。英語にもvet(veterinarian) やfridge(refrigerator)があり、trunk(木の幹⇒車のトランク)やboot(長靴⇒新兵)はその意味を大きく変化させてきた。言葉は生きて変化し続けている。

英語を勉強していても意外に知らない人が多いのだが、ブリテン島は11世紀にフランス国王の家臣・ノルマンディ公ウイリアムに征服されてから、上流階級はフランス語、一般民衆は英語という併用状態が300年間も続いた。おかげで英語にも多くのフランス語が入り込むことになった。そのほかにもオランダ語やスペイン語など、外国起源の言葉が増えて新たなボキャブラリーを形成し、現在に至っている。

私は大学の英文学科を卒業後、念願の高校英語教員になったが、現場で教える中でもっと勉強したいという気持ちが募り、4年で退職。米国コロンビア大学大学院に修士留学し、応用言語学の勉強に打ち込んだ。その時の多文化、多言語、多民族との出会いが、私の目を大きく開かせてくれ、今の自分の土台になっている。

言葉にはそれぞれの時代の人々の価値観が投影され、その変化には国同士の関係性も影響を及ぼす。国際関係学部で学ぶ歴史、文化、言語を手掛かりに、物事を多角的に捉える習慣を身につけてほしい。

写真の解説:
米国コロンビア大学大学院で学んでいた頃。「言語」を通して様々な人や文化に触れ、自身の価値観が大きく変化した。

このTopicsに関する講義

  • 英語学
  • 世界の言語
  • 現代言語学
  • 英米言語文化研究 etc.

生内 裕子 教授

津田塾大学学芸学部英文学科に在学中、アメリカに2か月間語学留学。卒業後、高等学校の英語教諭として4年間勤務の後、米国コロンビア大学に修士留学し、言語学の教育への応用や英語の新しい教育法を学ぶ。帰国後復職できる保証はなかったが、人生でいちばんやりたいことに打ち込めた2年間だったと当時を振り返る。

教員紹介

貧困に苦しむ途上国の人々のため、
国際社会は何ができるか。

アフリカ辺境の村で、貧しい母親がお腹を空かせた赤ん坊に、国際支援団体からもらった白い液体を飲ませた。ミルクだと思いこんでいたそのボトルには「農薬」と書かれていた。赤ん坊は死んだ。

字が読めない母親を責められない。長引く内戦で学校などあるはずもない貧しい村。責任を負うべきは、国内の混乱を解決できない政府と、手をこまねいて傍観するだけの周辺国や様々な国際援助機関だ。そこに働く人たちはみんな飛びきり有能で善意に満ちあふれているのだけれど、国際政治の混沌のなかで思うような活動ができず、結果として新たな差別や貧困を生み出す側に加担してしまうようなことさえ起こっている。

私は大学で国際関係学を専攻し、ラテンアメリカ諸国での国連の開発事業について調査を重ねてきた。卒論はペルーの学校給食プログラムについての調査。山間の先住民が多く住む地域で、民族格差問題などについて国際機関は何ができるのか、国連機関の力を借りて取り組んできた。

日本で外国のモノを買ったり消費したりしているあなたも、知らないうちに途上国の貧しい人たちを苦しめたり、搾取の片棒を担がされているかもしれない。そうならないためにも、国際関係について学んでみることをお勧めしたい。

写真の解説:
ラテンアメリカ・グアテマラの先住民女性たち。民族格差や貧困問題を抱え、農村部の人々は特に貧しく生活水準も低いといわれる。

このTopicsに関する講義

  • 国際関係論
  • 国際連合論
  • 国際関係史
  • ボランティア援助技術 etc.

眞嶋 麻子 助教

スペイン語を学び、国連開発計画UNDPの活動の現場を調査するためにメキシコに留学。隣国のグアテマラで70〜80年代に起きた先住民の虐殺など、民族間の格差が固定化されている世界の現状や、それに対する国連の開発支援政策の取組などについて研究を重ねている。

教員紹介

異文化体験は、案外きみの
いちばん身近なところにある。

インドネシアには、自分のことを“オラン・ジャパン”と呼ぶ人たちがいる。直訳すれば日本人であるが、現地の文脈においては日系インドネシア人を意味する。第2次世界大戦時にインドネシアで終戦を迎え、そのまま現地に残って、オランダからの独立戦争に命がけで参戦した経歴を持つ残留日本人たちが、そのルーツだ。

インドネシアの人口は2億3千万人だが、インドネシア人という民族は存在しない。この国はジャワ人やスマトラ人、バリ人、アンボン人など、約300の民族から成る多民族国家。自分の出自を確認し合う意味で「私は日系」「私はジャワ系」と名乗り合う。彼らの言う“オラン・ジャパン”には、自らの出自への誇りが込められている。ただし、子どもに日本式の名前をつけるときはHIROKIをHIROCKYにするなど、嫌日感情に配慮するデリケートな一面も覗かせる。

グローバル化の進展が人々の移動を加速し、文化の混交・変容を促す。仕事や勉強でやってきた日系3世が日本に永住し、結婚して4世を生む。彼らはもはや日本生まれの日本人だ。

かく言う私は、文化人類学の研究対象にインドネシアを選び、留学中に出会ったインドネシア人女性と結婚した。言語、宗教、価値観、食べ物など文化が異なる相手と日常生活を共にしている。文字通り毎日が異文化体験であり、私の生き方そのものになっている。

写真の解説:
国は違えど、人々の「ルーツ」をたどり歴史をひもとくと、日本の血筋や文化と深い関わりがあることに気付く。

このTopicsに関する講義

  • 文化人類学
  • 異文化コミュニケーション論
  • イスラム文化
  • 親族と婚姻論 etc.

伊藤 雅俊 助教

日本大学国際関係学部で文化人類学を学び、研究対象として非欧米系の文化、中でもインドネシアに興味を持つ。学生時代は度々長期にわたり現地調査に出向き、インドネシア国立メダン大学に学ぶ。現在、日系インドネシア人だけでなく、非イスラーム地域に暮らすムスリムについても調査研究を実施している。日本大学にて博士(国際関係)取得。

教員紹介