6学祖 山田顕義を知ろう 学祖山田顕義(やまだあきよし)は,弘化元年(1844)10月9日,長門国阿武郡椿郷東分中ノ倉(現山口県萩市)に長州藩士山田顕行の長男として生まれた。幼名は市之允。幼時から学問を好み,資性英明俊敏で,安政3年(1856)藩校明倫館に入り,翌4年6月に14歳で吉田松陰主宰の松下村塾に入門。松陰の刑死後は,高杉晋作,久坂玄瑞ら松門の先輩に伍して尊王攘夷運動に身を挺し,文久3年(1863)3月の加茂行幸に従ったのをはじめ,七郷落ちの随行,京都での情報活動や蛤御門の戦闘に参加した。元治元年(1864)御楯隊を創設し,軍監となる。日本大学のあゆみ THE HISTORY OF NIHON UNIVERSITYTHE HISTORY OF NIHON UNIVERSITY学祖 山田顕義 Founder Akiyoshi Yamada慶応4年(1868)1月征討総督副参謀に任じられ,長州藩の全体を指揮し,鳥羽・伏見の戦いに活躍の後,陸海軍参謀として箱館鎮定に戦功を挙げた。 明治4年(1871)に岩倉使節団に随行して欧米に出張し,その際ナポレオン法典に接し,先進各国の諸制度,法律の調査研究に傾注した。 明治7年(1874)に司法大輔に就任し,初めて司法行政に携わり,同10年には西南戦争に旅団長として出征し,偉勲を立てて陸軍中将に上り,勲一等を叙された。さらに参議などの要職を歴任し,同18年12月の内閣制度発足の第1次伊藤内閣から同24年の松方内閣まで歴代の司法大臣に任じられ,その間,憲法,民法,商法などの編簒に尽力し,近代的法治主義の基礎を確立した。 司法大臣在任中の明治22年(1889)1月には皇典講究所所長に就任し,同年10月に日本大学の前身である日本法律学校を創立した。 司法大臣辞任の翌25年(1892)故郷を訪問し,帰京の途上,11月11日に生野鉱山の視察途中に急逝する。享年49歳。東京・音羽護国寺に眠る。 現在故郷の山口県萩市には,学祖の業績をたたえて,史跡公園・顕義園(けんぎえん)が整備されている。日本大学の沿革 Brief History of Nihon University 明治22年(1889)10月4日,東京府麹町区飯田町(現在の千代田区飯田橋)の皇典講究所内に創設された「日本法律学校」が日本大学の前身です。 当時,日本は近代国家としての体制を急速に整えていきます。これに伴い,法治国家の形成をめざし,激しい法典論争が繰り広げられるようになりました。時の司法大臣,山田顕義は,欧米法典を中心にした論争を憂えて日本の古法旧制を明らかにするとともに,国情にあった日本的法学の樹立を図ろうと計画し,憲法起草委員・金子賢太郎らに協力を求めて創立したのが,日本法律学校です。
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